Masukフィオナからの緊急の手紙が届いたのは、夜の八時を過ぎた頃だった。
エリナはまだ起きていた。薬草の分類図を更新する作業をしていた。ルナが新しく持ってきた種類を、既存の図に書き加える地味な作業だ。 戸口をマリオが叩いた。 「早馬だ。フィオナさんから」 封蝋の葉っぱの印が、いつもより深く押されていた。急いで押したのだろう。 開けると、一枚の紙だった。短い。エリナへ
今夜、動く。 クロヴェル侯爵が、明日の朝、魔法省の内部会議でアッシュフォード商会の「危険性」について議題を提出する予定だ。内容は「魔法師の職域を侵す商業活動の規制について」。これが通れば、石鹸と薬草薬の販売に、魔法省の許可証が必要になる。許可証の発行はクロヴェルが握る魔法省が管轄する。つまり、永遠に許可が下りない仕組みを作られる。 情報源は確かだ。今夜中に手を打つ必要がある。 アルバ殿下には既に連絡した。殿下は「動ける」と言った。 一つだけ聞く。ダリウスに、連絡を入れていいか。 ――フィオナ――エリナは手紙を読み終えて、すぐに立ち上がった。
「マリオ、ゴードンさんを呼んできて。今すぐ」 「何かあったか?」 「明日の朝までに動く必要がある」 マリオが走り出した。 エリナは机に向かって、フィオナへの返事を書いた。 『ダリウスへの連絡、任せる。ただし、こちらから何かを「頼む」形にはしないこと。彼が自分で判断できる情報だけを渡す形で』 書いて、すぐに封をした。 早馬の使いはまだ外にいた。返事を渡して、すぐに戻るよう頼んだ。ゴードンが来た。
エリナは状況を三分で説明した。 ゴードンが黙って聞いて、口を開いた。 「魔法師の職域を侵す、という論理は、感情的な支持を集めやすい。特に中小の魔法師たちは、自分の仕事が脅かされると感じれば反射的に賛成する」 「だから、明日の会議が開かれる前に、その論理を崩す必要がある」 「崩す方法は?」 「二つ」エリナが答えた。
「一つ目は、石鹸と薬草薬が魔法師の仕事を奪っていないという事実を、数字で示すこと。二つ目は、この規制案が通ることで、誰が損をするかを明確にすること」
「一つ目は、学院のデータがある」ゴードンが頷いた。
「術後感染の減少で、治癒魔法師の負担が軽くなっている。それは魔法師の仕事を奪っているのではなく、重要な仕事に集中できるようにしているということだ」
「二つ目は、規制が入れば、石鹸と薬草薬が町に届かなくなる。届かなくなれば、病人が増える。病人が増えれば、治癒魔法師の需要は増える。でも、全員を治癒できるほど魔法師はいない。つまり、助けられるはずだった人間が助けられなくなる」 「誰が損をするかは、平民だ」 「そう。これを、魔法師たちが自分で気づける形で提示する必要がある」 ゴードンが少し考えた。 「今夜中にできることは限られています。レインさんと師匠に連絡を入れることと、アルバ殿下の動きを待つことが、今夜の主な手段になるかと」 「レインへの手紙を書く。今夜の速達で学院に届けてもらえますか」 「手配します」 エリナはすぐに紙を取った。レインへ
緊急。 明日の朝、魔法省の内部会議で、アッシュフォード商会の販売活動に魔法省の許可証を必要とする規制案が提出される。提出者はクロヴェル侯爵。 論理は「魔法師の職域を侵す商業活動の規制」。 これに対して、学院の師匠から魔法師団長へ、今夜中に一言でもいいので連絡を入れてほしい。内容は「規制案の審議を急がないよう」という要請だけでいい。審議を一日でも遅らせれば、こちらが準備できる。 無理ならば無理と返事をくれ。できるならば、できると返事をくれ。 ――エリナ――書いて、ゴードンに渡した。
「速達で」 「わかりました」 ゴードンが外に出た。 マリオが事務室の入り口に立っていた。 「俺にできることはあるか?」 「今夜は、待機していてほしい。何か動きがあった時に、すぐ動ける状態で」 「わかった」マリオが壁にもたれた。
「なあ、エリナ」
「何?」 「こういう時、怖くないか」 エリナは少し考えた。 「怖い」 「そうか」 「でも、怖いかどうかより、できることをやるかどうかの方が大事だから」 「それを怖いまま言えるのが、お前だな」マリオが静かに言った。
深夜近く、三通の返事が届いた。
順番に開けた。 一通目は、フィオナから。ダリウスに連絡した。
彼は、少し黙った後で「知っていた」と言った。 明日の会議の件、父から事前に聞いていたらしい。どうするかは、言わなかった。でも、電話を切る前に一言だけ言った。「私が動けることと、動けないことがある」と。 どういう意味かは、明日わかると思う。 アルバ殿下は今夜、魔法師団長に直接会いに行った。詳細は明日。 今夜は、できることをやった。あとは朝を待つ。 ――フィオナ――二通目は、レインから。
師匠に連絡した。
師匠は「その会議の件は把握している」と言った。把握していた。つまり、師匠はすでに何かを考えていた。 「審議を急がないよう」という要請は、今夜中に魔法師団長に入れる、と言った。師匠は、こういう時に動きが速い。 一つだけ付け加える。明日の会議に、俺も出席できる可能性がある。学院の代表として、石鹸と消毒液の使用結果を報告する機会があれば、発言できる立場にある。師匠に確認している。 結果は明日の朝に連絡する。 ――レイン――三通目は、ダリウスからだった。
封蝋はクロヴェルの家紋だったが、少しだけ崩れていた。急いで押したのか、あるいは力が入らなかったのか。エリナ・アッシュフォード殿へ
フィオナ・クロスベル嬢から連絡を受けた。 明日の会議について、私が「知っていた」ことは、フィオナ嬢に伝えた通りだ。 私が動けることと、動けないことがある。 動けないこと。父の規制案を、正面から止める力が、今の私にはない。それをやれば、家の中で私の立場がなくなる。家の立場を失えば、今後に使える手がなくなる。それは合理的ではない。 動けること。会議の審議において、「時期尚早」という意見を一票入れることができる。一票だけだ。それで流れが変わるかは、わからない。でも、入れないよりは入れる。 それだけのことだ。礼は不要だ。 ただ、一つだけ言う。あなたの父上が提唱していた改革案の記録を、私は一度だけ読んだことがある。読んで、正しいと思った。正しいと思いながら、今まで何もしてこなかった。それが、私の弱さだ。 一票だけだが、入れる。 ――ダリウス・クロヴェル――エリナは、ダリウスの手紙を三度読んだ。
一票だけだが、入れる。 それだけのことだ、と彼は書いた。 でも、それだけのことではない、とエリナは思った。 家の中の立場を考えながら、それでも一票を入れると決めた。 その一票が、会議の流れを変えるかどうかは、まだわからない。 でも、動いた。 エリナは紙を取って、ダリウスへの返事を書いた。 ダリウス様 手紙を読んだ。 一票だけだが、入れる。その言葉で十分だ。 あなたが「動けること」と「動けないこと」を、正直に書いてくれた。それが、今の私には一番必要な情報だった。 父の改革案を「正しいと思った」と書いてくれた。それを、父に代わって受け取る。 ――エリナ・アッシュフォード』―― 書いて、封をした。 明日の朝、届ける。夜が明けた。
エリナはほとんど眠れなかった。 でも、眠れなかったことへの後悔はなかった。 朝の光が差し込んだ頃、フィオナから最初の報告が来た。会議は始まった。
アルバ殿下が昨夜、魔法師団長に会っていた効果が出た。団長が冒頭で「本議題は、十分な審議期間を設けるべきだ」と発言した。これで、即日採決は難しくなった。 クロヴェル侯爵は、それでも強行しようとした。でも、ダリウスが「時期尚早」と発言した。父親の顔が、少し変わったと後で聞いた。 規制案は、「継続審議」扱いになった。今日は採決されない。 完全に止めたわけではない。でも、時間を作った。時間があれば、数字を積み上げられる。 エリナ、よくやった。いや、みんながよくやった。 ――フィオナ――エリナは手紙を読んで、少しだけ目を閉じた。
継続審議。 採決は、先送りになった。 完全な勝利ではない。クロヴェルは次の手を考える。ダリウスが今日動いたことで、クロヴェル家の内部関係がどう変わるかも、まだわからない。 でも、今日は止まった。 それで今日は、十分だ。昼頃、レインから短い手紙が届いた。
会議の件、フィオナから聞いた。
師匠が「今後の経緯を注視する」と言っていた。今日の結果は、学院の内部でも話題になっている。 それとは別に、一つ報告する。 今日の朝、図書室に行った。アッシュフォード侯爵の記録のページを、もう一度開いた。 娘の誕生日の欄に、名前が書いてあった。エリナ。 当たり前のことだが、改めて見て、少しだけ思うことがあった。うまく言葉にできないが、あることは確かだ。 ――レイン――エリナはその手紙を読んで、少しだけ止まった。
今日の朝、図書室に行った。 会議のあった朝に、図書室に行って、そのページを開いた。 なぜ今日だったのか、レインは書いていない。 エリナも、理由を聞かなかった。 聞かなくても、何かがある。それは確かだ。 マリオが事務室に入ってきた。 「フィオナさんから聞いた。今日は止まったんだな」 「今日は、ね」 「十分じゃないか」 「十分。でも、次が来る」 「そん時はそん時だ」マリオが肩をすくめた。
「今日の分は、今日喜べばいい」
「喜んでいる」 「全然そう見えないけどな。まあ、そういうやつだからお前は」 「マリオ」 「何?」 「今日、よく動いてくれた」 「俺、ほとんど待機してただけだぞ」 「いつでも動ける状態でいてくれることが、大事なんです」 マリオが少しだけ、照れた顔をした。 「……そういうこと言うなよ、急に」 「本当のことだから」 「わかった、わかった」マリオが頭を掻きながら出ていった。
夕方、エリナはレインへの返事を書いた。
レインへ 今日、よく動いてくれた。師匠への連絡が、一番の要だった。ありがとう。 図書室の話。今日の朝、そのページを開いたことを、なぜ教えてくれたのか、少し考えた。 答えは出なかった。でも、教えてくれたことは嬉しかった。 一年後の約束まで、残り五ヶ月になった。 ――エリナ―― 書いて、封をした。 残り五ヶ月。 まだやることは山積みだ。継続審議になった規制案への対応、薬屋の第三者データの収集、各町への普及の拡大。 でも今夜だけは、動いた人たちのことを思った。 フィオナが王都で動いた。アルバ殿下が夜に団長を訪ねた。レインの師匠が今夜中に連絡を入れた。レインが学院で発言できる立場を準備した。ダリウスが、一票を入れた。 一人では、今日は止められなかった。 エリナはランプの火を見た。 揺れている。 でも、消えていない。 それで十分だ。 エリナ・アッシュフォード、八歳。 今日、規制案は止まった。 一票を入れてくれた人がいた。 その一票の重さを、エリナは今夜、静かに受け取った。フィオナからの緊急の手紙が届いたのは、夜の八時を過ぎた頃だった。 エリナはまだ起きていた。薬草の分類図を更新する作業をしていた。ルナが新しく持ってきた種類を、既存の図に書き加える地味な作業だ。 戸口をマリオが叩いた。 「早馬だ。フィオナさんから」 封蝋の葉っぱの印が、いつもより深く押されていた。急いで押したのだろう。 開けると、一枚の紙だった。短い。 エリナへ 今夜、動く。 クロヴェル侯爵が、明日の朝、魔法省の内部会議でアッシュフォード商会の「危険性」について議題を提出する予定だ。内容は「魔法師の職域を侵す商業活動の規制について」。これが通れば、石鹸と薬草薬の販売に、魔法省の許可証が必要になる。許可証の発行はクロヴェルが握る魔法省が管轄する。つまり、永遠に許可が下りない仕組みを作られる。 情報源は確かだ。今夜中に手を打つ必要がある。 アルバ殿下には既に連絡した。殿下は「動ける」と言った。 一つだけ聞く。ダリウスに、連絡を入れていいか。 ――フィオナ―― エリナは手紙を読み終えて、すぐに立ち上がった。 「マリオ、ゴードンさんを呼んできて。今すぐ」「何かあったか?」「明日の朝までに動く必要がある」 マリオが走り出した。 エリナは机に向かって、フィオナへの返事を書いた。 『ダリウスへの連絡、任せる。ただし、こちらから何かを「頼む」形にはしないこと。彼が自分で判断できる情報だけを渡す形で』 書いて、すぐに封をした。 早馬の使いはまだ外にいた。返事を渡して、すぐに戻るよう頼んだ。 ゴードンが来た。 エリナは状況を三分で説明した。 ゴードンが黙って聞いて、口を開いた。 「魔法師の職域を侵す、という論理は、感情的な支持を集めやすい。特に中小の魔法師たちは、自分の仕事が脅か
ゴードンが記録をまとめ終えたのは、三日後の夕方だった。 机の上に積まれた書類の束を見て、エリナは少しだけ目を細めた。 厚い。 石鹸の販売を始めてから現在まで、一年半近くの記録がすべて入っている。供給量、販売数、各町の病人数の推移、傷の治癒事例、消毒液の使用結果、流通の記録、さらにゴードンが独自に集めた周辺の薬屋の売上動向まで。 「これだけあれば、学院の反論を数字で押し潰せます」「押し潰す、という言葉を使うとは」「珍しいですか」「少し」「長い間、不正を見ながら動けなかった人間は、数字で正義が証明される瞬間に弱い」 ゴードンが静かに笑った。「私がそうでしたから」 エリナはゴードンを見た。 この男がそういう話をするのは、珍しかった。 「商人ギルドで告発した時のことを、思い出していますか」「たまに。でも、今はそれより、この数字の束の方が大事です。過去のことより、これから使えるものの方が」「そうですね」「送付の準備をしましょう。学院宛てに、レインさん経由で」「お願いします」 書類の束を封筒に詰めながら、エリナはレインへの手紙を書いた。 データの送付について説明し、各項目の見方を簡単に注記した。 最後に一行、付け加えた。 『前の手紙で「今日は何日か」と聞いた理由を、まだ教えてもらっていない。』 書いてから、少しだけ止まった。 催促のような一行だ。 でも、気になるのは本当のことだから、書いた。 封をした。 翌日の朝、ヴァロウのマグダから珍しく本人が来た。 馬に乗って、一人で来た。息が少し上がっている。 「エリナちゃん、ちょっといいかい」「どうぞ。何かありましたか」「悪い話じゃないんだけどね」 マグダが台所の椅子に座った。「ヴァロウで、面白いことが起きてる」「面白いこと?」「
レインからの返事が届いたのは、手紙を出してから四日後だった。 その日の朝、エリナは誕生日を迎えていた。 八歳になった。 特別なことは、何もなかった。朝に目が覚めて、顔を洗って、台所に行くといつもの薬草茶が置いてあった。セレーナが先に起きていて、エリナを見て静かに笑った。 「おめでとう」「ありがとう」「何か食べたいものはある?」「いつも通りで」「少しくらい特別なものを頼みなさい」「じゃあ、パンに蜂蜜を」「それだけ?」「十分です」 セレーナが少し困った顔をして、でも笑いながらパンを焼いた。 蜂蜜は高いが、少量なら商会の収益で賄える。そういう計算を瞬時にして、でもそれを口に出さなかった。 出さなくて正解だったと思う。 マリオが朝一番に来て、開口一番に言った。 「誕生日おめでとう! 八歳になったな!」「うん」「何か欲しいものはあるか?」「今のところない」「つまらないな。じゃあ、今日は俺が荷物の確認を全部やる。お前は好きなことをしていい」「好きなことというのが、難しい」「難しい?」「好きなことをしろと言われても、やることが山積みなので」「それを忘れろ、今日一日だけ」「忘れたら困る」「本当につまらないな、お前は」 マリオが笑いながら作業場に入っていった。 ルナは何も言わなかった。ただ、その日だけ、猫を一匹エリナの膝に乗せた。理由を聞くと「誕生日だから」とだけ言った。 ゴードンは帳簿の端に小さく「祝 八歳」と書いて、それ以上は何もしなかった。 それで十分だった。 昼過ぎ、使いの男が手紙を持ってきた。 王都からではなく、王立魔法学院からの封書だった。 エリナは封を開けた。 エリナへ 父上の言葉について、書いてくれてありがとう。『この子は私よりうまくやる』という言葉
橋が開いてから一週間が経った頃、母のセレーナが熱を出した。 朝、エリナが台所に行くと、セレーナが椅子に座ったまま額に手を当てていた。顔色が白い。目の下に影がある。 「お母さん」「大丈夫よ」「大丈夫には見えない」「少し疲れが出ただけ。強化した袋を夜遅くまで作っていたから」 エリナはセレーナの額に手を当てた。 熱い。体温計はないが、明らかに平熱ではない。 「今日は寝ていて」「でも縫製の仕事が——」「後回しにできる仕事は後回しにする。できない仕事は、後で謝って期限を延ばしてもらう。どちらも、お母さんが倒れるよりはいい」 セレーナが少し笑った。 「あなたに言われると、反論できない」「反論しなくていい。寝ていて」 エリナはセレーナを寝室まで連れて行き、布団を掛けた。薬草茶を作って枕元に置いた。発熱に効くカモミール系の花と、解熱作用のある葉を合わせたものだ。 「これを飲んで。一時間ごとに様子を見に来る」「大袈裟よ」「大袈裟じゃない」 エリナは寝室の扉を少しだけ開けたままにして、台所に戻った。 ルナに今日の母の状態を伝え、薬草の追加を頼んだ。ルナはすぐに頷いて、棚から必要なものを取り出した。この子は、説明を最小限にしても動ける。 マリオには、今日の荷物の確認を一人でやってもらうよう頼んだ。ゴードンには、縫製の納期について取引先に連絡を入れてもらうよう頼んだ。 役割を割り振り終えて、エリナは一時間後に寝室を覗いた。 セレーナは眠っていた。薬草茶は半分、飲まれていた。 昼過ぎ、セレーナの熱が少し下がった。 目が覚めたセレーナが、水を一口飲んで、エリナを見た。 「ごめんなさい、心配させて」「謝らなくていい」「でも」「体が資本というのは、お母さんにも当てはまる。私だけ
流通が止まってから五日が経った。 その五日間、アッシュフォード商会は止まらなかった。 迂回路を使い、猟師のベルトが週三回荷物を運んだ。量は減ったが、ヴァロウとトレネへの供給は続いた。マグダが現地で在庫を管理し、シェナが薬草薬の一部を現地調合で補った。キーシュのジルカは海沿いの別ルートを一本確保して、南方面への影響をほぼゼロに抑えた。 ゴードンは毎日、王宮への定期報告書に一行だけ追記した。 「流通の一時的な制限により、供給量が通常比七割となっております。代替手段により、医療的効果を持つ商品については継続供給中」 七割という数字を、正確に記録した。 困っているとも、誰かを責めるとも書かなかった。 ただ、事実を、正確に。 「これが大事なんですか」 マリオが横で帳簿を眺めながら聞いた。 「王宮への記録に残す、ということが?」「そうです。供給が減った理由を書かずに数字だけ書いていれば、誰かが後で見た時に『なぜ減ったか』を調べることになる。調べれば、流通の停止が見えてくる」「じゃあ、クロヴェルが止めたって、わかる?」「わかる人間には、わかります」 マリオがそれを聞いて、少しだけ顔を明るくした。 「賢いな」「エリナさんの方針です。直接告発するのではなく、数字で語る」 五日目の夕方、フィオナから手紙が届いた。 いつもより分厚かった。 エリナへ 動いた。結果から書く。 明日の午前、橋の検問が解除される見込み。理由は「書類確認が完了した」という公式発表になる予定。 裏で何があったか。 アルバ殿下が、地方道路管理局に対して「王宮からの商業視察対象商会の荷物について、優先的に通行を確保するよう」という非公式の通達を出した。命令ではなく、「配慮のお願い」という形。これで局長は「殿下の意向に従った」という体裁が立つ。 同時に、私がゴードンさんから教えてもらった情報を使って、局長の周辺にいる
物流への介入が現実になったのは、ダリウスの再訪から十日後のことだった。 朝、ヴァロウのマグダから急ぎの使いが来た。 馬に乗った若い男が、泥だらけの顔で長屋の前に現れた。マグダの息子だと言った。 「母から言付けです。今朝、荷物が届きませんでした。街道の検問が増えていて、商人の馬車が軒並み足止めを食っています」 エリナは表情を変えなかった。 「街道のどのあたりですか」「ルシェムとヴァロウの間の、橋の手前です。王都の役人が来て、通行証の確認をしていると」「通行証は、出ているはずです」「出ているのに、書類の不備があると言われて、通してもらえないと業者の人が」 書類の不備。 エリナは、頭の中でその言葉を一度だけ転がした。 不備の内容を確認しなければ、対処のしようがない。でも、不備の内容が何であれ、今日の荷物は止まっている。 「わかりました。お母様に伝えてください。今日の荷物は遅れます。代替の手段を考えます」「はい」 男が馬を返した。 エリナはゴードンを呼んだ。「予想より早かったですね」 ゴードンが、地図を広げながら言った。 「ルシェムとヴァロウの間の橋は、街道の要所です。ここを押さえれば、北方向への荷物はすべて影響を受ける」「ベルナへの荷物は?」「ベルナは南です。今のところ影響はないはずですが、いつ同じことが起きるかはわかりません」 エリナは地図を見た。 橋の位置、街道の分岐、各町への距離。 ルシェムを中心として、北と南に街道が伸びている。北がヴァロウとトレネ方面、南がベルナとキーシュ方面。 「北側の迂回路は?」「一本あります。ただし、山間の道なので時間が倍以上かかる。馬車では厳しい道です」「荷物の量を減らして、ロバか人力で運ぶことはできますか」「試みることは可能です。ただ、石鹸は重い。薬草薬は繊細で、運